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宗旨と教え

仲台寺の宗旨は浄土宗です。
浄土宗は法然上人によって開宗されました。
法然上人は十三歳で比叡山に登り、叡空をはじめ浄土教並びに諸宗の高僧に教えを請い、四十三歳で比叡山を去るまでは正に求道の日々でありました。いくら研讃を続けても魂の拠り所は与えられなかったのです。

ところが、承安五年(1175 )中国の僧善導大師の「観経疏」を読み、たちどころに余行をすてて専修念仏に帰入したのです。

専修念仏とは、念仏の行のみを修めて他の行を捨てることを意味しています。

極楽往生を求める従来の念仏の行は、多くの行と結びついた修行であり、複雑な理論の理解、財物の布施、厳しい修行の積み重ねが要求されていました。つまり、あらゆる人間の救済を約束する阿弥陀仏の本願は、現実には阻まれざるを得ませんでした。浄土教を真に救済の宗教として確立するためには、救済の手続きを単純化し、全ての人間の手に届くものでなければなりません。

法然上人は、「選択本願念仏集 」の中で、「極楽往生を心から願うものは全て救済される 」とういう阿弥陀仏の第十八願を根拠に、
「念仏とは貧しい者、愚かな者に往生の望みを遂げさせるための弥陀の本願である。」
と説き、阿弥陀仏を念じて、常に「南無阿弥陀仏 」と唱えれば、極楽浄土に往生できると教えています。

仲台寺を草創された称念上人は、法然上人の遺風を慕い、厳粛な清規のもとで専修念仏一行にはげみ、その権化につとめた高僧です。

 

仲台寺の歴史

仲台寺は称念山一心院と号し、天文年間(1532〜54)の初期、称念上人によって武蔵国豊島郡田端村(北区田端)に開創されました。

室町時代の末期、いわゆる戦国時代と言われる頃のことです。

称念上人は、三蓮社縁譽と号し、正しくは三蓮社縁譽上人吟翁(吟應)称念大和尚とお呼びしますが、一般には称念上人の名で親しまれています。

永正十年(1513)江戸品川に生まれ、八歳の時増上寺(港区)七世・親譽和尚について剃髪し、宗戒両脈を相承しました。「称念上人行状記 」によると、師の親譽和尚の示寂ののち飯沼弘経寺五世・鎮譽和尚に師事して宗学を研鑽したと伝えられています。(「仲台寺雑記 」参照)。

全景

称念上人は、十六歳で岩付浄安寺(岩槻市)の住職となり、大いに法輪を転じて人々の教化に当たりましたが、世利に縛られることを厭い、俗塵をさけ、仏利を固く守って、念仏修行に徹した高僧で、稱念上人のこういった教えを遵守する僧らを「捨世派の僧 」とよび、その寺院を「捨世地」といいます。仲台寺も捨世地に数えられます。

「唯称念仏の一行を要期となし、専ら他力の妙術をもって化益し給ふに、四衆群集して稲麻竹葦のごとし 」ー 「稱念上人行状記 」

四衆群集すれば名利を求める者もまた集まるのが世の常です。世俗にまみれることを厭う稱念上人は、天文五年(1536)天智庵を法弟に譲り、十三年(1544 )に西国へ向けて巡錫に旅立ち、ふたたび東国の地にもどることなく、天文二十三年(1554 )七月十九日、京都の一心院(稱念上人の開創 )で示寂しますが、この天文五年から十三年にかけての足跡が関係文書のどこにも見当たりません。

仲台寺が稱念上人によって草創されたのは、この天智庵を辞した天文五年ないしは翌六年(1536〜7 )のことではないでしょうか。田端村に草庵を結び、「世俗を離れて唯称念仏一行」に徹していたと解すべきでしょう。

「仲台寺ー同郡平塚之内田端村 稱念山一心院 開山三蓮社縁譽吟應称念上人−
 −剃髪師増上寺第七世親譽上人、附法倶同師也 又 起立年号不知 天文廿三甲寅年七月一九日於洛陽一心院寂 −」

−『元禄由緒記』−

仲台寺が草創されたころの周辺の地は、樹々が鬱蒼と茂る武蔵野特有の丘陵地帯で、緑濃い閑寂の地でした。周囲が次第に開拓されていくのは、寛永年間(1624〜43 )以降のことです。

天正十八年(1590 )徳川家康が江戸へ入部し、慶長八年(1603 )に江戸幕府を開府します。

仲台寺が堂宇を建立して寺容を整え、称念上人の遺徳をしのんで「称念山一心院」と号したのはこの頃のことでしょう。

元和元年(1615 )、幕府は宗教統制策のひとつとして、全国寺院に命じて本末関係を確立させます。これを諸宗諸本山諸法度といい、仲台寺は増上寺と本末関係を結びました。

江戸時代も元禄年間に入ると、人びとの生活も安定し庶民の間に物見遊山をかねた寺社詣でが盛んになります。観音参りや地蔵尊巡拝、閻魔参りが盛んになるのもこの頃からのことで、仲台寺の本堂に安置される諸尊像や、境内の観音堂、閻魔堂に参詣する人びとが、あとを絶たなかったといわれるのもこの頃からのことでしょう。

慶応四年(1868 )、江戸幕府が崩壊し明治新政府が樹立されると、神仏分離令がだされ廃仏毀釈運動が全国に広がります。各寺院は一様に荒廃への道を辿り、仲台寺も境内地を上地され宗教活動にまで支障きたす状態に陥りました。

明治新政府の基盤が確立された八年から十二年(1875〜9 )にかけて、全国各寺院の財産を調べるため「寺院明細簿 」が提出されました。その是非は別として、寺史の調査の上では貴重な資料となっています。

仲台寺の明細簿は、明治十年に行冏和尚によって提出されています。

その記述によると、神仏分離によって大きな痛手を受けた仲台寺が、わずか十年で旧状に復していることがわかります。

明治三十八年(1905 )日露戦争役が終わると、ふたたび庶民信仰が隆昌します。仲台寺は「田端のおえんまさま」とよばれ、土地の古老によると、毎年一月と盆の十六日の閻魔の斎日には、門前に市がたつ賑わいであったといいます。

昭和二十年三月、太平洋戦争の空襲によって、仲台寺は本堂をはじめ諸堂宇のことごとくを焼失してしまいました。昭和三十六年3月、復興途上にあった仲台寺は、古くから親しんだ土地の人達の要望を入れて、その旧地を滝野川第七小学校の校地として提供し、現在地へ移転しました。

そして二十六年を経た昭和六十二年三月に現在の新本堂が落成したのです。

仲台寺は称念上人によって草創されていらい、四百有余年の歴史の中で法灯を絶やすことなく灯しつづけ今日に至っています。

 

庶民信仰と仲台寺

三十三所観音参り

この順拝路は、安永年間(1772〜80)に設けられたと伝えられ、正しくは「上野より王子駒込辺 西国写し三十三所観音参り」といいます。現在の台東区から北区の南部にかけての観音菩薩を安置する旧刹を巡拝するものでしたが、廃寺や寺院の移転等によってその順路は大きく変わってしまいました。

観音菩薩は、正しくは観世音菩薩、観自在菩薩といいます。衆生が救いを求める声を聞くと、自在にこれを救うということで、現世利益の救済を施す菩薩として、古くから庶民の信仰が寄せられました。

仲台寺は十番霊場札所。境内の観音堂に聖観音菩薩像が安置されていました。

 

地蔵菩薩

天空を象徴する虚空蔵菩薩に対し、大地の恵みを神格化した菩薩が地蔵菩薩です。

釈迦の入滅後、弥勒仏が下生するまでの無仏時代に、衆生済度を受け持つ菩薩として奈良時代の頃から進行されました。

頭を丸め身に衲衣・袈裟をまとう僧形で、右手に錫杖、左手に宝珠を持つ立像で、死者を解脱の道へ導く姿をあらわしています。

仲台寺には、境内に丸彫り延命地蔵尊、舟型浮彫りの延命地蔵尊が安置され、本堂脇陣には、左手に幼子を抱いた水子地蔵尊が安置されています。

 

閻魔百ヶ所参り

仏教では、人間が死ぬと冥界(仏の世界)十王の裁判を受け、次に往くべき世界が定まるとされています。

なかでも閻魔王は、死者の生前の善悪を審判し懲罰し、不善を防止する地獄の王とされています。

毎年一月と盆の十六日を「閻魔の斎日」といい、仲台寺は「田端のおえんまさま」とよばれて、多くの人びとが参詣に訪れました。

 

庚申塔

仲台寺の庚申塔は参道の左脇に安置されています。

庚申の信仰は、もと中国の道教の説で、人の体内にいる三尸の虫が、庚申の夜、天に昇ってその人の罪過を天帝に告げるため姓名を縮められる・・・と伝えられ、庚申の夜は眠らずに言行を慎み、健康長寿を祈願するという信仰になりました。

仲台寺の庚申塔は、謹慎の態度を示す三猿の上に如意輪観音が刻された、非常にめずらしいもので、寛文八年(1668 )に造立されています。

 

仲台寺雑記

仲台寺に安置されたご本尊の阿弥陀如来像は、伝教大師(最澄、日本天台宗の祖)の作と伝えられ、俗に雷除阿弥陀とよばれています。

仲台寺の境内や周辺には木々が鬱蒼と繁り、その木々にしばしば雷が落ち、火災となりましたが、仲台寺には、ご本尊の利益によって一度も落雷することが無かったことから名付けられたものです。

「称念山仲台寺。浄土宗。増上寺末。上田端村。
 本尊、雷除阿弥陀、伝教大師作。」

− 『江戸志』 −

称念上人の行状記によると、増上寺七世、親譽和尚の示寂ののち飯沼弘経寺へ赴き、五世・鎮譽和尚に師事したと記されていますが、『浄土鎮流祖伝』『新撰往生伝』などによると、親譽和尚は天文二十年(1551 )に示寂しています。とすると称念上人は三十九歳になっていたことになり、年代的に大きな差異が生じてしまいます。

この『〜行状記』は、宝暦十二年(1762 )に一心院四十世・妙阿和尚によって記され、いらい称念上人に関する記述の基盤となってきました。歴史的事実にもとるからといって、こういった思想史的事実を否定することは、信仰の上では最も危険なことと考え、『称念上人行状記』の記述に従いました。

宝暦七年(1757 )に刊行された『江戸紀聞』によると、仲台寺は初め板橋中台に草創され、のちに田端村に転じたのかもしれぬ・・・と記していますが、板橋中台の記述の中にも、過去に該当する忌地もなく、これは誤りです。

 

 

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